考証
寺子屋教育に果たした僧侶の役割
寺子屋について調べました、忌憚のないご意見を伺います。著作権は杉浦幹雄に属します。

内容
1 寺子屋で読み書きそろばんを習う
2 大きな藩ほど少ない寺子屋
3 寺子屋の経営者は地区ごとに異なる
4 僧侶が多い地域は浄土宗系の宗教が多い
5 愛知県は寺子屋が多かった
6 浄土真宗のお寺は広い
7 たかが寺子屋されど寺子屋

1 寺子屋で読み・書き・そろばんを習う

歴史は権力者の手で創られる。記録に残されたものは圧倒的に体制派のもの、支配者の目から見た歴史である。江戸時代に幕藩体制が確立し、士農工商の身分制度ができた。「士」の武士については記録がある、「工」の職人、「商」の商人も町の住民、庶民として記録が残っている。しかし被支配者の農民については全国民の8割以上占めていたにもかかわらず、農民の実情を農民の目で記録したのは少ない。庄屋とか豪農の記録はあるが小作農、水呑百姓の記録はあまりない。

私事だが祖父は明治初期の生まれ、8人兄弟の長男、成人したのは弟三人、妹一人。弟2人は東京へ奉公、妹は京都へ奉公にあがる、弟が百姓を継ぎ、祖父は近くの町に出る。祖父と弟妹は村の寺子屋に通った、あまり真面目ではなかったらしい。しかし祖父と弟妹は難しい漢字を読み書きでき、算盤もできる。終戦後の「当用漢字・現代かな使い」で最低限の漢字しか教育されなかった私にとってはまさに驚きだった。

寺子屋教育が日本の近代化に果たした役割は、文盲が世界一少ない、識字率が高いことだけではないであろう。明治維新をのりこえ、日清・日露戦争を戦い、欧米の工業化に追いつき追い越した日本。その陰には勤勉でかつ読み書き算盤ができて、自力改善に意欲的な農民がいたことが挙げられよう。そこには欧米にない「民」の寺子屋が貢献していたことが特筆大書されるべきであろう。

藩校

江戸時代の教育制度をふりかえれば、藩校・私塾・寺子屋の3点セットである。藩校・私塾は「官」である。武士に生まれてきたら半強制的に藩校で論語など四書五経を勉強させられた。町民・農民は原則的には入学できなかった。全国で18世紀には幕府の文武奨励もあり各藩1校あり約250をこえる、その内近畿・中部・関東が高くそれぞれ50校以上あった。官立の富国強兵策とはいえ地方文化振興に果たした役割はおおきい。

北から有名なものをあげれば、米沢・興譲館(1697)、会津・日新館(1799)、水戸・弘道館(1841)、岡山・花畠教場(1641)、長州・明倫館(1719)、熊本・時習館(1755)、薩摩・造士館(1755)などがある。何故か外様大名のほうが圧倒的に多い。

私塾

私塾とは文字が示すように私立である、一部藩の支援もあり家塾と称したものもある。藩校と寺子屋の中間的な存在、全国で一時期、約1500もあった。経営母体は多様、儒学者のものは中江藤樹、荻生徂徠など。武士、豪農、新興商工業者なども多い。授業料は藩校、寺子屋に比較すれば高かった。緒方洪庵の「適塾」、吉田松陰の「松下村塾」は有名であり、明治維新の有為な人材育成を行った。

寺子屋

町民・農民など底辺の庶民大衆教育施設、「手習所」ともいった。戦国時代からあったが天保時代(1830〜)から急増し、幕府・藩の管理・統制下にない純然たる「民」の教育所が維新時、全国で約16千もあった。世界教育史上規模が小さいとはいえ私立の施設が多様な経営母体のもと存在したのは稀有のことと言われる。

明治5年(1872)寺子屋を小学校にと学校制度計画書が出されたが、費用分担など予算措置もなく市町村ではすすまなかった。小学校の設立が市町村に義務づけされたのは漸く明治23年(1890)、大衆の義務教育化は明治30年(1907)のことである。都会では寺子屋は早く姿をけしたが田舎では明治中期まで存在し小学校教育の一部を肩代わりした。

2 大藩ほど少ない寺子屋

藩校・私塾にはかなりの文献・資料があるが寺子屋の実態については残念ながら資料は少ない。その中でも全国を明治16年(1883)調査した文部省総務局編の「日本教育史資料」は貴重な存在である。しかし内容を見ると北海道は函館だけ、岩手・埼玉・奈良・香川・愛媛・沖縄の資料は欠落している。また一部の郡・町村が脱落しているものもある。記載されるべき項目でも空白部分が多いのも散見される。とはいえ大数の法則で大雑把な傾向は把握できる。

幕末期、藩の大きさは禄高が目安、50万以上が大藩で8藩、40万石はない、30万石は27藩、20万石が6藩、10万石が27藩、あとは零細藩である。江戸と関東近県など旗本・大名の直轄地があり禄高が必ずしも国の大きさを現してはいない所もある。大藩は金沢100万石を筆頭に鹿児島・仙台・名古屋・和歌山・広島・熊本・福岡。寺子屋のベストテンは長野・山口・岡山・愛知・熊本・兵庫・大阪・岐阜・島根・宮城の順。大藩の石高と寺子屋をグラフに書けば逆相関である、中・小藩においても例外はあるが石高が少ないほうが寺子屋数は多い。

譜代よりも外様大名が禄高が多いということもあるが、それにしても外様大名のほうがバラツキはあるものの寺子屋数は多い。200以上の寺子屋の地区をあげれば東北地方では、宮城(伊達・62万石)567、青森(津軽・10万石他)455、秋田(佐竹・20万石他)249

関東地方では神奈川(小田原11万石他)506、東京(幕府下)482、山梨(天領)254

中部地方では長野(真田・10万石他)2748(身分欄空白を除けば564)、愛知(尾張・62万石他)977、岐阜(戸田・10万石他)754

近畿地方では兵庫(酒井・15万石他)818、大阪(田辺・6万石他)779、京都(稲葉・10万石他)564、滋賀(井伊・35万石他)450、和歌山(徳川・55万石)293

中国地方では山口(毛利・36万石他)1247、岡山(池田・31万石他)1026、島根(松平・18万石他)670。四国地方は徳島(蜂須賀・25万石)448

九州地方は熊本(細川・54万石他)910、大分(奥平・10万石他)。

禄高に比較して寺子屋が少ないのは順番に石川(前田・102万石他)、鹿児島(島津・77万石)、福岡(黒田・52、有馬・21万石他)、広島(浅野・54万石他)、佐賀(鍋島・35万石他)、茨城(徳川・35万石他)、福井(松平・35万石他)など。

大藩は江戸幕府のご機嫌伺いに忙しく、士族の教育、殖産興業、流通には力を入れたが、町民・百姓の教育には関心がなかった。また藩の管理・統制が厳しく、士族以外の豪農、商人が自由に寺子屋を開所することができなかったこともあろう。江戸にはそれぞれ立派な上屋敷・中屋敷・下屋敷があり武士も多く、奉公人もそれに伴い大勢いたと思われる。地元での寺子屋の必要性を中間階級では感じていてもなかなか実現しなかった。武士などは儒教教育を受けていたはず、陽明学の「知行合一」、実践しなければ知識の意義はないことは知っていたと思われる。武士が行動を起こし寺子屋の経営、教師を務めるのは例外もあるが中・小藩の方が多い。

3 寺子屋の経営者は地区によりかなり異なる

寺子屋なる言葉はいつから使われたか明確ではない。中世から子供が手習するときに、お寺に預けてお坊さんに躾教育をしてもらうのを「寺子」と言う。それがお寺でなく神社、庄屋、武士、医者などで手習するときも慣習上「寺子」と呼んだ。屋は経営・指導の母体の総称で、民間で手習するときの施設を寺子屋と言うようになった。

「日本教育史資料」8,9巻には寺子屋の身分別経営者欄がある。文部省の調査以来時に身分の定義をしっかりして調査すればよかったが自由に書かしたらしい。身分欄の空白がかなりある、書きにくい、または分らなかったのかもしれない。しかも「平民」という身分が多い。そもそも平民とは明治2年(1869)華族制度ができ従来の士農工商の身分を呼称したもの、平民を庶民と勘違いしたり、町民を平民と同視したり現場では混乱があったものと思われる。身分欄は多彩で、僧、神官、修験者、浪人、武士、農業、工業、商業、医師、平民などがある。身分と職業が混在している。

平民の経営者が多いのが東京55%、熊本32%、愛知28%、大阪24%、岡山24%など。士農工商の身分がなくなり、華族以外は、全て身分は平民と知っていた文明開化のレベルが高いところが平民と記載したのかもしれない。

武士が多いのは熊本57%、青森47%、山口46%、宮城44%など。農民が多いのは栃木49%、千葉50%、長野48%など。工業、商業の身分は少ない、平民と記載したものと思われる。商業は富山59%がダントツ、薬の外商で必要だったのだろう。

医者が多いのは高知39%、広島17%、静岡16%、兵庫16%、島根16%など。修験者が多いのは宮城9%、秋田9%、群馬7%、山梨6%、栃木6%など東北地方が目立つ。

神官が多いのは山梨21%、島根17%、新潟16%、静岡16%、岡山14%、秋田14%など。

僧侶が多いのは福井75%、三重46%、静岡44%、滋賀41%、岐阜34%、大阪33%、愛知30%など。

データが精粗まちまち、信頼性に疑問があるものの、地区の風土に経営者が誰であったかはかかわりがあると思われる。修験者、神官、僧侶は平民と記載する率は低かったと思われる。僧侶の身分を記載した寺子屋を調べるのは意義があるだろう。

4 僧侶が多い地区は浄土系の宗教が多い

「日本教育資料」で身分欄に記載がある寺子屋数400以上は@山口 A岡山 B愛知 C熊本 D兵庫 E岐阜 F大阪 G島根 H長野 I宮城 J京都 K東京 L大分 M青森 N滋賀である、西高東低と言えよう。

幕末で8割は農民、中世は9割が農民であった。鎌倉仏教改革で仏教は貴族のものから町民・農民など民衆のものとなってきた。浄土宗、真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗など新興宗教があらわれた。法然、日蓮、蓮如などの布教活動で念仏集である浄土系(浄土宗、浄土真宗、時宗)の宗教は北陸・東海・近畿・中国・九州などに広がった。特に農村地区では16世紀に多くなった。

徳川幕府は寺社奉行まで設置し寺院統制を始めた。檀家制度は中世から一部あったが江戸時代には強制的に檀家を登録しなければならなくなった。僧侶の布教活動・サービス活動の優劣に関係なく地区のお寺に決められた。また宗門改帳が強制され出生・死亡・奉公など届が必要になり、お寺に戸籍帳ができた。

寺子屋の性格上農民・町民層が多い、彼等は難しい宗教は信仰しない。念仏を唱えれば浄土に行くことができる、ありがたやと浄土系の宗教が普及しシェアーを伸ばしたのも当然であろう。浄土系宗教信徒のシェアーと寺子屋400以上の県をグラフにプロットすると下図のようになる。岡山・宮城のようにシェアーが低くても寺子屋が多いところもあるが、シェアーの高いところのほうが、寺子屋数が多いと言えよう。寺子屋200以上の県で寺子屋の経営者が僧侶の比率と浄土系信徒比率のグラフを書けば下図のようになる。熊本を除けば浄土系信徒比率の高い地区のほうが、僧侶が寺子屋の経営主体である比率が高いとも言えよう。

北陸地方のように浄土真宗のシェアーが高くても寺子屋数が少ないところもあるからこれだけで因果関係があるとは言えない。地区の文明開化度などの指標を勘案することが必要であろう。しかし例外もあるが寺子屋の多いところは浄土系の宗教信者が多いとは言えるのではないか。特にどの地区でも農村部は僧侶の果たした役割は大きいものがある。

5 愛知県は寺子屋が多かった

「日本教育史資料」の脱落・空白などを調整すれば、寺子屋の全国一は山口、2位は愛知、3位が岡山で何れも1000をこえる。愛知は尾張と三河からなる、風土は異なるのに明治に入り廃藩置県、よくも2つを一緒にしたものだ。尾張は冠婚葬祭が万事派手、三河は地味、尾張は良く遊ぶが三河は遊び方を知らない。尾張と三河に共通するものは浄土真宗・浄土宗のシェアーが高いことである。

「日本教育史資料」の寺子屋の資料に「旧管轄」という項目がある。以前誰の支配下にあったか、税金・年貢の納め先である。尾張は御三家・徳川家62.5万石の大藩で寺子屋は521。寺子屋のうち代官所・陣屋など幕府の管轄下のものは6箇所1.2%にすぎない。

それにたいし三河は吉田(豊橋)7万石、西尾6万石、岡崎5万石など小藩が9藩あり合計27.5万石、寺子屋は456であった。尾張62万石に比較するといかに小藩が多かったか分る。その割には寺子屋が多い。寺子屋の旧管轄を調べると、幕府の代官所などの領地が58、大岡越前守など7人の幕閣の領地が57、旗本の領地が47、大樹寺・本証時など寺院が8、白山神社が1、と合計191箇所の寺子屋がある。これは三河の寺子屋の42%に相当する。中には大きな領主もいる、家康16将の一人渡辺半蔵家のもの、1.4万石、挙母藩が2万石だから破格の石高だ。尾張藩主補佐役・家老で寺部(豊田市)藩主、鞍ヶ池を造成し新田開発もしたが寺子屋のオーナーにもなった。藩主・殿様が誰であろうと三河各地で寺子屋が数多く設立されたのは何故だろうか。

秀吉の兵農分離以降武士の地位は確立し、江戸時代には士農工商の身分制度ができた。家康の江戸への国替えに伴い、武士以外の人材流出が相次いだ。木綿・繭の商人、瓦屋など奉公人も増えた。江戸の高度成長で商売人など町人は大勢になり懐具合がよくなった、そこで奉公するには読み書き算盤ができると重宝されることが分ってきた。国本の三河で武士は藩校で教育されるが町民・農民はその機会がない。そこで町や村の有力者、「民」の活力で手習所ができることになる。お寺、庄屋・豪農、医者などが力を貸した。東京では未だに「三河屋」の商号も多い、勝海舟も「三河武士」をほめた。「三河木綿」は有名であり、「三河物語」なる本も著された。

三河特に西三河では蓮如の浄土真宗布教で信者数が増えた。仏教特に真宗では間引きが御法度で禁止されていた。長男以外は家をでなければならない、奉公に有利とあらば親心で何とか読み書きを教えてやりたいと思うのは人情である。とはいえ農家でも小作農とか貧民には余裕がなく豪農・自作農の子弟以外手習はできなかったであろう。

三河の本証寺(安城市野寺町)は幕末最盛期には全国に末寺200余をもち、三河だけでなく尾張、美濃さらに江戸にも末寺があった。京都の本願寺の中本山的な役割を果たし、門徒は本願寺の奉仕活動などで京都との往来も盛んであった。藩主・庄屋などに頼らずとも世の中の情報は江戸・京都などから確実に入ってきた。

16世紀蓮如が真宗を布教したときに、「仏の前では皆平等」僧侶と門徒は平座で話すという画期的なことを行った。「講」が奨励された、村内だけでなく時には藩をこえて門徒が集まり僧侶の講話の後、ワイワイガヤガヤ話し合いが行われた。現在製造業中心に行われている「QCサークル活動」は戦後できたが、400年前に行われた「講」のDNAのおかげで世界初の改善また改善のサークル活動が盛況になったとも言えよう。

田畑の生産性向上、新田開発で忙しかった農民も時代の成り行きを肌で感じ取り、武士になれないまでもせめて町人並みの生活をしたいという欲求・願望が出てくるのはやむをえない。貧農は草を取る、中農は土を作る、富農は人をつくると言われるが、庄屋・豪農・自作農が子弟の教育に熱心になってきたことがある。おまけに三河の藩主は江戸詰めが多く、領地・農民をかまう余裕はない。自主活動の寺子屋は農民・町民のニーズにもとづき村単位に設立されたのであろう。

「日本教育資料」には西尾・幡豆郡が欠落している。三河27.5万石のうちに西尾藩は6万石、それと藩主以外の領地が42%を勘案すれば、三河は60.5万石、寺子屋は583と推論できる。同様に尾張を推論すれば、66.3万石、寺子屋は521。尾張は三河より禄高は1割多いが、寺子屋は三河のほうが尾張より1割多いことになる。少なくともほぼ同じであったと言えよう。

しかし三河より尾張の名古屋藩は商工業が活発で町人も多く芸事も盛んであった。藩校・私塾とも質的には三河を凌駕していた。藩主の尾張徳川家は現在の新宿区戸山に高さ40mの箱根山を造り、東海道53次を真似た庭園を造成した。何と8.5万坪の広さで幕府の連中を接待したという。そのおかげで土木・造園技術は発達したのであろう。余談だが先年ポーランドツアーでヴロツロフ市の公園に寄ったとき、日本庭園が洪水で被害を受けたのを名古屋の造園技師が無償で修理してくれたと聞いた。尾張の殿様もあの世でこれを聞いたら喜ぶであろう。

7台宗春のとき遊里設置、芝居を奨励した藩主の華美文化が町人にもいきわたり、消費は活発、景気はよくなり「芸どころ名古屋」になった。やがて宗春は謹慎、第9代の宗睦は40年在職、藩札発行、財政の健全化に尽力した。知多出身の細井平州は江戸で儒学を学び藩校・明倫堂をたて学問を奨励した。三河と違ってお殿様主導の事業活動・文化活動で武士だけでなく、町人・農民もその影響を受けた。寺子屋の設立ニーズは高まり名古屋の中心部だけでなく農村部にも寺子屋は普及していった。

寺子屋の経営者をみると尾張は、僧侶27%、平民25%、農業15%、神官9%、医者7%など。三河は僧侶34%、平民32%、農業19%、医者6%など。どこでも当初僧侶が多かったが、町中では経済が発展し新興商工業者が増えると僧侶に代わる経営者が出てきた。しかし農村部では僧侶が多い、浄土真宗では村単位にお寺を建てたということもあるだろう。

私事だが本籍の安城市城ヶ入町の真宗寺院は18611872年開業、教師1人、生徒100人、習字・算盤を教える、祖父はここに通った。私が学童期に住んだところの真宗寺院(安城市小川町)は18121858年開業、教師1人、生徒40人、習字・読本を教えた。小学校卒業時の安城市大岡町は昔白山神社領地で豪農が18441872年開業、教師1人、生徒50人、習字・読本・算盤を教えると記載されている。

6 浄土真宗のお寺は広い

中世から始まった「講」とか寺子屋が今様に言えば地域のコミュニティーセンター、公民館のような役割を果たしていた。そのお寺がどの程度の大きさを表わすかの中世のデータはない。豊田市教育委員会発行の「豊田市の寺社建築」には寺社の構成、広さの資料がある。浄土宗、浄土真宗、禅宗が220寺、しかし大寺院から説教場まで、また所要データもないものもあるが宗派別にその特徴をみてみる。

禅宗は60寺、臨済宗は少なく殆ど曹洞宗である。豊田市の猿投地区など丘陵地帯が多い。浄土宗は89寺、矢作川水系の平野部に多い。浄土真宗は後発の宗教だったからお寺のないところに建てた。高岡・上郷地区など開拓地が多い、71寺ある。

永禄6年(1563)三河一向一揆を鎮めた家康は浄土真宗を禁制にして浄土宗を庇護したことも影響している。浄土真宗から浄土宗に鞍替えした寺もあり、20年後禁制が解けても戻らなかったところもある。家康と幕府は京都に知恩院、江戸に増上寺を建て浄土宗2大本山制をひいた。三河には大樹寺(岡崎市)、高月院(豊田市)、洞泉寺(豊田市)など有名寺院もある。

真宗の寺は農民・町民の念仏に場所が必要であり、また説教場、「講」、寄合所としてのニーズから建てられている。当初は小さいが江戸・明治に入りお寺は大きくなった。禅宗は資料が乏しいので浄土宗と真宗を寺院の建物の構成から比較すると下表のようになる。

 宗派  本堂  庫裡  書院  山門  鐘楼  水屋
 浄土宗 89 30 25 25 18 10
 真 宗 71 50 34 34 55 26

真宗は本堂に対して庫裡90%、鐘楼78%、書院70%、水屋37%が付属している。浄土宗は本堂に対して庫裡49%、鐘楼20%、書院34%、水屋11%しか付属してない。付属建造物におおきな差がある。浄土宗のお寺の信徒は武士が多く、農民・町民は少ないため資金調達が難しかったこともある。真宗のお寺は後発で開拓地に立地したから敷地に余裕があったこと、信徒が農民・町民が多かったので寺院建築の負担にたえられたこともある。

本堂の中は仏壇と僧侶の座る「内陣」と門徒の座る「外陣(げじん)」と大別できる。寺院のデータが記載されているもののみ畳数で比較したのが下表である。真宗が浄土宗、禅宗に比較して圧倒的に広いことが分る。豊田市のデータから全国を推論するわけにはいかないにしても、これだけの差があるからには真宗のお寺は大きかったと言えるのではなかろうか。真宗寺院になく浄土宗、禅宗にある建物としては、観音堂、地蔵堂、納骨堂、薬師堂、33間堂などが一部寺院にある。これらは門徒の集会場とは別で除外した。

  宗派  寺院数  内陣(畳)  外陣(畳)
 浄土宗   34.0   10.4   25.1
 真 宗   33.0   14.0   50.9
 禅 宗   16.0    5.6   26.5


建築様式からみると、真宗は一見して分る屋根構成が多い。写真は三河本証寺(安城市)であるがこれとほぼ似たお寺が多い。豊田市の真宗寺院の本堂は60%が東向きである。他宗から宗派換えした寺、道場、説教場などを除くと80%が東向きである。浄土宗、禅宗系の寺院は東・南・西と様々である。流石に北向きはない。浄土宗は2大本山、宗派が20以上もあり統一が困難だったこともある。曹洞宗は永平寺(越前)、総持寺(能登)の本山が農村地帯にも布教活動を展開したが寺院は小さいのが多い。しかし大きな寺には開山堂、観音堂、33間堂、禅堂など付属しているものもある。山裾の平坦地が多く、山門・総門など門構えが立派なところもある。臨済宗は長興寺など城主が建てた有名な寺もあるが曹洞宗に比較して豊田市にはお寺は少ない。

閑話休題

私事だが今年親類の法事が2件あった。一軒は三河仏壇で有名な大仏壇、一軒はコンパクト仏壇、いずれも真宗仏壇で、大小は別にして仏像の形、名号ほかデザインの中身は似ている。共通しているのは抹茶が出ること(三河西尾抹茶は品質・数量全国ナンバーワン)、僧侶の読経のあと全員で「歎異抄」「正信偈」の一説を大声で詠み、経をあげることである。その後故人を偲んで説法がある。



仏教は葬式仏教になりさがったと言わ れて久しいが、真宗門徒の家では昔な がらの仏事が行なわれていることが多 い。一軒の説法では仏教の易しい解説 があった。大谷大学長の曽我量深(り ょうじん)さんの書でQ&A形式である。

Q1 仏様とはどのような人か。

 A 我は南無阿弥陀仏と名乗っておられる方。

Q2 仏様はどこにいなさるか。

 A 南無阿弥陀仏と念ずる人の前においでになる。

Q3 仏様をどのように念じたらよろしいですか。

 A 仏様たすけましませと念じます。

誰でも何処でも何時でも南無阿弥陀仏と仏を念じることにつきます。

農民・町民に極めて分りやすく仏法を説いた蓮如ほか僧侶の熱心な布教活動で真宗門徒は増えたが、「心の救済」のご利益があったから日本でシェアーがトップになったのであろう。それが代官には年貢を納めたくないが、旦那寺には無理してでも冥加金を供えることに繋がる。また京都の本願寺のため金も、労役を惜しみなくだすことにもなる。門徒が多いことと、ご利益が多いと感じるから資金調達が容易で立派なお寺が建つことになった。

禅宗では門徒数が少ない、武士など金回りが良くない門徒が多い、「講」などのニーズも少ないなどでお寺は大きいのが少ないのではなかろうか。浄土宗では真宗と禅宗の中間で武士・農民・町民と門徒の層は広いが門徒数は少ないお寺が多いので大きなお寺は少ないのであろう。戦後の農地改革で田畑を多く所有していた曹洞宗のお寺などは不在地主で小作に安く農地を譲渡したため困窮しているところもある。真宗寺院は門徒数が比較的多く、仏事もそれほどすたれず行なわれているからまだ良いかもしれない。いずれにしろ宗派は別にして僧侶の果たした役割は江戸時代までは大きかったが、廃仏希釈の明治以降昔日の面影はない。僧侶側にも意識改革が求められるが一般民衆も無神論・無宗教を自慢しないで神仏のご利益を再考する時ではないかと思う。


7 たかが寺子屋、されど寺子屋

幕藩体制下の民衆支配は領主のもと郡代・代官が農村を、町奉行が都市を担当する。農村には村方3役(庄屋、組頭、百姓代理)、都市には町役人(町年寄、名主、町代)がいてそれぞれ百姓と町人を統括していたのが多い。寺院はその元データを寺請制度の戸籍で管理していた。武士は藩校で半強制的に教育されたが百姓・町人は一部私塾、大半は寺子屋で教育された。藩校は各藩にあったが規模の大小だけでなく質もばらついていた。それよりも私塾のほうが量・質ともばらつきが大きい。寺子屋はさらにばらつく。

武士だけ難しい四書五経を勉強すればよいのではなく、百姓・町人も教育すればその見返りは藩にもあったはず。それでも藩・地区により大幅な差がある。百姓・町人の手習のニーズの高まりとそれにこたえるボランティアー的経営者の出現がなければ寺子屋は増えなかったであろう。都市は市場経済の発達とともに町人の手習のニーズは高まり、経営者さえいれば寺子屋はできた。しかし農村部では都会ほど経済発展・文明開化は進まず、百姓の手習のニーズは弱かった。またニーズがあっても特に経営者がいなかったのも大きいだろう。浄土真宗は村単位に寺を建てたから、僧侶の教育能力・意欲があれば寺子屋はできたであろう。経営者が誰であれ江戸末期から明治初年代寺子屋が大衆教育に果たした役割は大きい。しかも官立、公立でなく私立の寺小屋である、そこに大衆の自立の目覚めがある。

明治年間に公家・大名などを除いて華族(侯・伯・子・男爵)に列せられたのは山口75人、鹿児島71人、高知31人、福岡・小倉16人、熊本4人。維新回天を担った薩長土肥が多いのは当然として石高、寺子屋と比較すると、寺子屋は山口1247、熊本910、高知214、福岡159、鹿児島19。禄高は鹿児島77万石、福岡73万石、熊本54万石、山口36万石、高知24万石の順序。ちなみに浄土系の信者比率は鹿児島85%、熊本81%、山口73%、高知38%である。士族優先で「一将功なって万骨枯る」ということはなかったか。政治・経済・社会・文化発展に大衆教育の寺子屋の果たした役割はどれほどか。総理大臣を輩出した山口県と寺子屋は関係ないのであろうか。寺子屋の風土との絡み、風土に果たした宗教の絡みなどまだまだ興味がある、今後さらに突き詰めていきたい。

                               

ホームペイジに戻る