なぜ日本人は印象派が好きか


 フランス印象派が好きで随想を書きました。

                     内容                                                              

                1 印象派との出会い

                2 印象派とは誰のこと

                3 浮世絵を学んだ印象派

                4 印象派に学んだ日本

                5 印象派を広めた日本

                6 印象派は一日にして成らず

                7 たかが印象派されど印象派


                                                           ルノアール 「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」 1876
        

1 印象派との出会い

国民学校、新制中学校とも美術・絵画とは無縁な生活だった。絵画の時間はあったが絵は下手だった、また興味もなかった。ケネディがダラスで狙撃された1963年、社用でシカゴに1ヶ月いた。1ドル360円、外貨持ち出し制限で遊ぶ金はない。フルブライト留学生の同期入社のT君がアドバイスしてくれた、シカゴ美術館に行けばよいと。なるほど木曜日は夜9時まで無料、見所はたくさんあった。何回も訪れるうち、足は自然と絵画しかもルノアールなど印象派の部屋だった。

シカゴ美術館は印象派・後期印象派のコレクションで世界的に有名であることは帰国後に知った。とにかくルノアール、モネ、セザンヌ、ゴッホ、スーラなど名画が燦然と輝いていたことを想いだす。

ボストン美術館にもびっくりした、ミレーの作品は世界一の所蔵、モネ、ルノアールなど印象派の絵も多かった。日本では見たこともない国宝級の東洋美術が展示されている、岡倉天心が東洋美術の責任者だと聞き分ったものの、なぜ国外にこれだけのものが流出したのか複雑な境地だった。

ニューヨークのメトロポリタン美術館は3回も訪れたが、とてつもなく大きい。ここでも絵画部門は印象派が特に充実していた。

サンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館、ここの絵画部門は凄い、イタリア、オランダ、ドイツ・スペイン、フランスの絵画が1500点もある。印象派モネ、ピサロ、ドガ、ルノアール、後期印象派セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、よくもこれだけのものを集めたものと感嘆するのみ。

海外の美術館は時間がないこともあり印象派中心に見て回ったが、ツアーの日本人の多くが同じ考えで行動をともにした。しかし海外の美術館で外国人は必ずしも印象派中心でないことが分り、私はじめ日本人はなぜ印象派が好きか調べてみることにした。

2 印象派とは誰のこと

ルノアール、ゴッホ、セザンヌなどが印象派だろうと漠然とした知識だった。調べてみると人により解釈が違うが、印象派をフランス19世紀絵画として捉えることの重要性に気がついた。美術史的な見地から20世紀になり、印象派の再評価が行われ、19世紀フランス絵画がイタリア・ルネサンスより高く評価されるようになった。

19世紀前半の古典・ロマン・バルビゾン・写実主義の発展の上に立ち、19世紀後半の印象・新印象・後期印象の絢爛豪華な通称印象派または印象主義があることを知った。

1870年の普仏戦争、1871年のパリ・コミューン(内戦)以前からパリでモネ、ルノアール、ドガ、ピサロ、セザンヌらが知り合い、官展を中心とした絵画の評価体制に疑問と不満をもっていた。1863年 マネの「草上の昼食」が落選し、淫らなヌードを描いたとスキャンダルになった。しかし従来の歴史画にみるヌードとは一線を画していることは明らかであり、造形的な斬新さも高く評価する人もいた。

モネ、ルノアールが原色を使いながら明るい画を描いた。この技法がシスレー、ピサロ、セザンヌに伝えられた。普仏戦後には「色調分割」という理論になり多くの画家が試みるようになった。しかし革新的な技法は官展サロンの審査員には認められない。やむなく「画家・彫刻家・版画家の無名協会」を立ち上げることになる。1874年が第1回、その後1986年の8回までパリでグループ展が開かれた。年長のピサロを中心にドガ、ルノアールが推進者、モネ、セザンヌ、シスレーが技法開拓担当で進められた。モネの第1回出品作「印象―日の出」を新聞記者のルロリが「もやもやと印象を描いた」と評論したのが「印象派」と命名することにつながった。

個性の強い芸術家グループ、名誉と金が絡み、40歳前後になると印象派の運動も発展的解消を迎えることになる。技術的にはスーラを新印象派、個性的なセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、ロートレックを後期印象派と呼ぶ。ただ新印象派も後期印象派も特別な運動を展開したわけではない、美術史的にみて理解しやすいということで便宜的に命名されたものである。もっともセザンヌ、ゴーギャン、ゴッホの3人は人生の後半、晩年に大作をものしたことでは共通点がある。

フランス19世紀絵画を時代区分ごとに表にすれば下記のようになる

時代

名前

生存

家柄

学校

海外

影響

対象

交流

古典

ダヴィッド

1748

ブル

 

ローマ

 

英雄 

 

 

1825

パリ

ジョアー

 

 

 

 

アングル

1780

芸術家

 

ローマ

ダヴィッド

自然

 

 

1867

 

 

 

フィレンツェ

 

デッサン

 

ロマン

ドラクロア

1798

外交官

美術

モロッコ

ゲラン

動き・色彩

ショパン

 

1863

パリ

 

 

 

ジェリコー

苦悩

 

ターナー

1775

床屋

美術

イタリア

 

水彩画

 

 

1851

倫敦

 

 

 

 

 

 

 

コロー

1796

商人

 

イタリア3回

 

村の風景

ルソー

バルビ

 

1875

パリ

 

 

 

 

 

ミレー

ゾン

ミレー

1814

農家

 

 

 

農夫の生活

ルソー

 

 

1875

西北

 

 

 

 

 

コロー

 

クールベ

1819

農家

 

 

 

都会風俗

ボードレール

写実

 

1877

 

 

 

 

 

 

 

 

マネ

1832

裁判官

 

蘭・独・墺

 

風景・裸体

ゾラ・セザンヌ

 

1883

パリ

 

 

伊・西

浮世絵

静物

ルノアール・モネ

 

モネ

1840

食料品

アカ

アルジェ

ブーダン

光の効果

ピサロ・シスレー

 

 

1926

パリ

 

デミー

ロンドン

浮世絵

睡蓮

ルノアール・マネ

 

ドガ

1834

銀行家

美術

伊・西

アングル

踊子・馬

マネ・ルノアール

 

 

1917

パリ

 

 

浮世絵

動き・形

 

印象

ルノアール

1841

洋服屋

美術

アルジェ

クールベ

女性・子供

モネ・シスレー

 

 

1919

中部

 

 

 

浮世絵

風俗・人物

マネ

 

ピサロ

1830

 

 

 

ミレー

 

セザンヌ

 

 

1903

 

 

 

 

 

 

 

 

シスレー

1839

 

 

 

 

風景

 

 

 

1899

 

 

 

 

 

 

 

 新

スーラ

1859

不動産

美術

 

 

「点」画

ピサロ

印象

 

1891

パリ

 

 

 

 

風景

 

 

セザンヌ

1839

銀行家

 

 

プーサン

風景・静物

ゾラ・モネ・シスレー

 

 

1906

南仏

 

 

 

浮世絵

人物

ルノアール・ピサロ

 

ゴッホ

1853

牧師

 

 

ミレー

ひまわり

ゴーガン・ドガ

後期

 

1890

南仏

 

 

 

浮世絵

糸杉

ロートレック

印象

ゴーガン

1848

記者

 

マルティック

 

未開の土地

ゴッホ

 

 

1903

パリ

 

 

タヒチ

浮世絵

 

 

 

ロートレック

1848

貴族

 

 

 

酒場

ドガ・ゴッホ

 

 

1901

南仏

 

 

 

浮世絵

踊り場

 


3 浮世絵を学んだ印象派

1986年オルセー美術館がオープンしたとき、「ジャポニズム展」がパリと上野で開催された。その副題は「19世紀西洋美術への日本の影響」というもので絵画だけでなく版画・彫刻・工芸・建築・写真など400点が出品された。浮世絵は印象派の画家はほとんど学んで影響を受けている。あまり学んでいないのはピサロ、シスレー、スーラなど少数である。

モネは北斎の「富嶽三十六景」をもとに描いた、また200点をこえる浮世絵を収集して居間にも飾っていた。日本趣味がこうじて庭に太鼓橋をつくり、屏風絵のような庭園を造っている。「衣装・扇子・団扇のモネ夫人」という絵がある。ゴッホには広重の模写の絵がある。「タンギー爺さん」の背景には浮世絵の画がある。日本びいきで「僧侶としての自画像」という画も描いた。マネは日本の団扇、扇子を描いた屏風の画がある。セザンヌの絵の構成は浮世絵の影響が強く出ているといわれる。異国趣味もあるがジャポニズムとして多かれ少なかれ影響を受けていたことは確かである。

4 印象派を学んだ日本

梅原龍三郎はパリで絵画の修行をした。ルーブル美術館に通い、ルノアールの模写を続けるうち心酔してルノアールに師事する。モンマルトル近くのルノアールの家近くに借家し、ルノアールの写生旅行にも同行しているほどだ。安井曽太郎もパリで修業しセザンヌに傾倒するようになる。黒田清輝はパリで法律を勉強する予定だったが、美術に鞍替えして研修の後、東京美術学校の初代教授になり「白馬会」を主宰している。安井曽太郎、有島生馬など一時期、パリの日本人画学生は300人をこえたというから信じられないくらいパリ詣でがあったことになる。

20世紀初頭藤田嗣治はモジリアーニ、ユトリロ、ピカソ、シャガールと共に日本人で始めてエコール・ド・パリのスターにもなった。棟方志向は「自分は日本のゴッホになる」と青森から東京に出てきた話は有名である。

5 印象派を広めた日本

1955年以降ルノアール展が日本各地で開催されて会場は人気が出て賑わった。それにあやかり喫茶店で「ルノアール」と命名するところも現われた。1958年以降ゴッホ展が各地で開かれ好評を博した。ゴッホ人気にあやかり新宿の安田火災ビルの東郷青児美術館ではゴッホの「ひまわり」を198753億円、ゴーギャンの「アイリス」を66億円で購入して話題になった。ゴッホの「医師ガッシュの肖像」を125億円で購入したオーナー製紙会社の社長は「死んだらこの画を棺桶に入れてくれ」と言って世間の顰蹙をかつた。

フランスに接収された数千点の美術品のうち返還された松方コレクション中心に1959年コルビジェ設計の国立西洋美術館が上野の森にオープンした。西洋美術館というネーミングもよく、コレクションもそろい、美術ファンが増えた。モネの「睡蓮」クールベ、グレコなどの絵もある。ロダンの「考える人」の彫刻は有名になった。

美術の出版書も戦後多くなったが、印象派は特別な扱いのところもある。1964年梅原龍三郎編「世界の美術」全25巻 河出書房はハンディーな家庭向き美術図鑑である。それをみると一人一巻はセザンヌ、ルノアール、ゴッホ、ゴーギャン、二人一巻はドガ・ロートレック、三人一巻はとマネ・モネ・スーラで合計5巻。印象派のシェアーは20%である。コロー・ミレー・クールベの一巻を含めると全六巻、24%になる。イタリア・ルネサンスの絵は3巻で12%であるから印象派の絵は破格の扱いである。

図書館、学校向けに出版された望月信成監修「少年少女世界美術全集」西洋編4巻のうち頁数で比較すると印象派は8.5%、ルネサンスは3.9%である。

その他世界美術全集も大同小異だが、印象派は10〜15%とシェアーは高い。

印象派の日本での人気はあきることがない。2004年2月には東京の3箇所で印象派の展覧会が開かれている、前代未聞である。こぶりな展覧会ではあるが、それぞれ企画に工夫が凝らされている。

「マルモッタン美術館展」1月27日〜 東京都美術館 

いわずと知れたパリの印象派の名画があるマルモッタン美術館の作品展だが、今回は女性画家ベルト・モリゾの作品が40点も見られる、日本初公開である。

「モネ・ルノアールと印象派展」 27日〜 東京BUNKAMURA

印象派を風景画家と人物画家に層別し展示しているのが面白い。モネの15点、ピサロ・シスレーなどの風景画。ルノアール79点、ロートレック・ボナールなどの人物画。ユニークな企画は1873年モネとルノアールがパリ郊外セーヌ川沿いのアルジャントゥイュの鉄橋を同じ構図で画いたものが対比して展示されていること、右上がモネ、右下がルノアール。
親密な
33歳の2人だが印象派初期の作品とはいえ、
これだけ画家により違うものかと驚く。




「印象派の巨匠ピサロ展」 
211日〜 日本橋三越

ピサロ没後100年記念の回顧展だが、ピサロは印象派の長老として第1回から第8回の印象派展覧会をリードしてきたことはあまり知られていない。会場のデータを引用すると下表のようにピサロがダントツの出品点数であることが分る。

 

 画家

 1

 2

 3

 4

 5

 6

 7

 8

前期印象派

ピサロ

12

22

38

16

28

36

19

シスレー

17

 

 

 

27

 

ドガ

10

24

25

25

12

 

15

モネ

18

30

29

 

 

35

 

ルノアール

18

21

 

 

 

25

 

スーラ

 

 

 

 

 

 

 

18

後期

セザンヌ

 

16

 

 

 

 

 

ゴーガン

 

 

 

10

13

19

会場

参加者

30

18

18

16

18

13

17

出品点数

165

252

241

246

232

170

203

246

ミレーの影響をうけて農村風景を画き、モネ・ルノアール・セザンヌなどと交流した印象派の中の特異な画家ピサロを偲ぶ100点が展示されている。

3会場とも平日は熟年・高年者が目立つ、東京は恵まれているといえよう。


6 印象派は一日にしてならず

イタリアのルネサンス絵画よりも大きな影響を世界に与えた印象派がパリに生まれたのにはそれなりの時代背景がある。

(1)政治との絡み

19世紀の政治面から見ると1789年のフランス革命が終ったあと、ナポレオンが1804年皇帝になり戦争は絶え間なく行なわれた。戦には必ず従軍画家を連れて行き戦意高揚の画を何枚も描かせた。王制時代のきらびやかなロココの画とは違い、ギリシア・ローマ時代の古典的な形に戻った伝統的な画風である。大革命時代の共和主義者ダヴィッドはロビスピエールのもと公安委員も務め逮捕されたこともあるが、ナポレオンの知遇をえて宮廷画家として活躍した。大量の絵画が発注されたが、戦争画はグロなどに任し自らは「ナポレオンの戴冠式」など大作に挑んだ。しかし時のエリートだけでなく、人生の死を見つめた画も何枚か描いている。アングルなど弟子には「画家は哲学者・文学者などと同じく国家・社会に貢献すべき、そのため日頃教養を高めろ」と言っていた。単なるナポレオンの傀儡、お抱え画家ではない、19世紀フランス絵画の見識あるトップランナーであった。

ナポレオンが退位して王政復古になるとダヴィッドの古典主義は衰え、ドラクロワのロマン主義が現われる。ナポレオンの体制に対する反動もあり、社会の矛盾をついて人生の苦悩を描いたものが多い。

1830年の7月革命、さらに1848年の2月革命でナポレオンV世が誕生した頃には古典主義、ロマン主義に変りバルビゾン派、写実主義が現われた。バルビゾン派と呼ばれるコロー、ミレーは従来誰も描かなかった農村、農夫の生活を描いて、権力者、ブルジョアージー(新興商工業者)に眼を向けていた画家の眼を覚ました。写実主義はパリの都市化が進み人口増と共に貧富の差の目立つ社会風俗をリアルに描いた。

1955年パリで万国博覧会がロンドンについで開かれ、各国の文明開化の状況が分るようになった。1970年普仏戦争、ナポレオンV世退位、第3共和制の頃から印象派が現われた。激動の政治・社会情勢にともない従来の枠にとらわれない自由な発想で明るい絵画が求められるようになった。今までの官需とも言うべき教会、皇帝、王制、公舎などの大型画の受注は激減し、民需ともいうべきブルジョアージーの居間に飾る小型の画の需要が増えてきた。暗い宗教画、戦争画などは敬遠され、明るい静物画、風景画、風俗画が求められるようになった。

(2)パリの都市改造

パリは細い道がくねくね曲がり、ペスト他病気もはやる不衛生な都市、人口が増えても住宅は狭い、少ない人口密集都市でもあった。ナポレオン三世はオスマンに命じて19世紀後半パリの大改造を行った。今日見るパリの姿はほぼこの時代にできあがった。シテ島などの過密・不潔地区の住居は強制的退去、そのあと上下水道・道路・橋脚などが整備された。オペラ座はガルニエが1861年から14年かけて造り、パリの公園・庭園も整備された。1889年にはエッフェル塔が建設される。パリ中が官需の公共事業で高度成長を謳歌していた。画家たちも時代の変化を敏感に感じ、画風を刷新する心意気をもちそれが印象派の画に結びついたと言えよう。

(3)万博の効果

1回の万博ロンドンが1851年、第2回パリ万博が1867年開かれ、多くの人が見聞を広めた。画家も例外ではない。印象派の第1回展覧会はパリ万博の7年後に開かれた。私事だが家族連れで大阪万博を見てとてつもないエネルギーを感じたことを想いだす。発展途上国で万博が開かれるのも国民的な高度成長への期待感・高揚館を煽るものであろう、効果は絶大である。パリ万博、経済・文化の高度成長に果たした役割は今よりもっと高かったであろう。

(4)絵の具が改良された

従来の画の描き方は室内で、顔料を豚の油でときパレットの中で混ぜて描いていた。19世紀後半にチューブが開発されて、画家は室内でなく戸外にキャンパスを持ち出し、自由に被写体を前にして描くことができるようになった。モネがルーアンの大聖堂を場所と時間をかえて何枚も描くことができた、セザンヌが石灰岩のサント・ヴィクトワール山をあきることなく何枚も描けたのは絵の具の技術革新のおかげでもある。

(5)描き方が変った

明るい絵を描くにはどうしたらよいか、パレットの上で絵の具をかき混ぜる、どうしても暗くなる。3原色をかき混ぜれば黒くなる。原色をそのままキャンバスの上に置く、光の効果で見たときの色を表現する描き方、モネ、ルノアールなどにより開発された。後年「色調分割」とか「視覚混合」と理論つけられた。従来の油絵の表面は滑らかだが、印象派の絵は横から見ると画面は凹凸である。これが見たとき視神経を心地よく刺激し明るい絵に見える秘訣である。スーラの新印象派は極端なほど画面がつぶつぶの粒子で描かれている。

(6)農民生活を描くようになった

国民の9割は農民である。その生活は誰も絵の対象にしなかった。しかし従来の絵のように宗教他の知識がなくても、また都会でなくても絵が描ける。パリは革命後自由・平等・友愛の思想で変っていても、農村は相変わらず貧しかった。パリ郊外のバルビゾン村に集まったコロー、ミレーなどの画家たちは18世紀の風景画を一歩進めた。農村の、農夫の生き様をリアルに描いた。しかしフランスだけでなく西洋では残念ながらあまり評価されなかった。画家になりたかったヒトラーだけは勤勉を大切にする国民をイメージしてミレーを高く評価したと言われる。ミレーの「種をまく人」はアメリカの銀行の標章に使われた、日本でも岩波書店の本の裏表紙には小さな丸い円の中に種をまく人の絵が使われている。華厳の滝に飛び込んだ藤村操と岩波書店の社長が第一高等学校同級生で勤勉のシンボルとして図書につけることを考えたと言う。ボストン美術館はミレーの絵を60点所蔵し世界一である、山梨美術館はミレーの「種をまく人」を購入しバルビゾン美術館になった。カトリック国よりプロテスタント、仏教国のほうが労働の価値、勤勉の尊さを知っていたと言うことかもしれない。米国と日本のミレー信仰のおかげで絵の値段は上がり、フランス国内でミレーは再評価された。それはともかくミレー他のバルビゾン画家が農村、農夫を描いたことは画期的であり、ゴッホ、セザンヌ、ピサロなどに影響を与えている。都会の風俗を描いたルノアールでさえ「都会の女」「田舎の女」を描いている、農村にも関心があったことが伺える。

(7)画家の溜まり場、モンマルトルがあった

ルノアールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の絵に描かれているようにモンマルトルのカフェなどの溜まり場に画家たちが群れていた。画家以外にもゾラ、ショパン、ボードレールなど多彩な人々がいる。芸術家の芸域拡大、芸を極めるには格好の場所を提供していたと言えよう。

気難しい画家連中が多い、世間から印象派はあまり評価されないなかで、年長者のピサロが気配りして曲がりなりにも8回の印象派展覧会が開催できたのも、溜まり場の交流があったからだろう。

(8)自由があった

フランス国はイギリスについで植民地侵略を繰り返していたが、画家連中はイタリアを始めとして海外各国に出かけている。モネ、ルノアールはアルジェリアに、ゴーギャンはマルティック島、タヒチ島と植民地に旅行している。ゴーギャンは家族と離別タヒチでアトリエを立て、植民地政策に反抗して逮捕・罰金刑を食らっている。アメリカまで旅行したのはドガである、ドガの絵には「動き」がある。アメリカの産業革命の高度成長を垣間見たからかもしれない。

モンマルトル界隈には海外からの芸術家予備軍も大勢きている、本音は別としても当時としては人種差別はなく住み心地はよかったと思われる。人種の坩堝の中で自由があり芸術は開花したと言えよう。

競馬、劇場、踊り子を描いたドガ、庶民感情をもちミレー流に農村・都市を描いたピサロ、踊り場、レストラン、女性、花を描いたルノアール、水辺、睡蓮、大聖堂を描いたモネ、静物、山を描いたセザンヌ、「ひまわり」「糸杉」を描いたゴッホそれぞれ特徴はあるが自由に伸び伸び明るく描いている。

 たかが印象派されど印象派

絵について何も知らない男が40年前やることがなくシカゴ美術館に通った。何となく印象派の絵が好きになり今日まできた。現在は印象派と言うより19世紀フランス絵画全般に興味がある。ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」ドラクロワの「自由の女神」などには愛国心を見る思いがする。ミレーの「落穂拾い」「晩鐘」をみると学童時代に稲刈りを終えた夕暮れ時、お寺の鐘がゴーンとなりひもじさと疲れが一度に出てきたことを想いだす。辛い農作業を経験しているせいかミレーの絵には共感を覚える。

印象派の絵は明るい、特にルノアールが一番好きだ、少女、薔薇などを描いたものが良い。豊満な女性も良い、私は生まれたとき母乳を少ししか飲めない、医者からは成人できないと言われた虚弱児、乳が張ってお椀に絞りだし涙ながら捨てた、母親としてこれほど悲しいことはないと何回も聞かされたことを想いだす。ルノアールの絵には豊かな情感、あふれる幸福感を感じるが、ブルジョア夫人の肖像画で潤い暮らしに困らず人生の機微が感じられない絵だと酷評する人もいる。晩年リューマチに苦しめられ車椅子生活でも画筆を握った、それでも暗さがない。ゴッホ・ゴーギャンは自殺、ロートレックはアルコール中毒、セザンヌさえ自殺未遂など晩年には寂しさがある。しかしルノアールだけは別だ、悲しい絵を見たことがない、何れも幸せそうな絵に救われる。まだまだ書くことはあるがルノアール礼賛で終りたい。 

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