ゲーテ街道

ゲーテ生誕の地フランクフルトからフルダ、アイゼナッハ、エアフルト、ワイマール、ライプティッヒまで全長約400`を通称ゲーテ街道という。この道はかってのパリからウクライナのキエフまでヨーロッパ大陸を横断する「王様の道」でもあった。とともに貿易・通商の道でもある。軍事的にもカール大帝、スウェーデンのグスタフ王、プロシャのフリードリッヒ王、そしてナポレオン皇帝とこの道を馬車で駆け抜けた、従士はその後を追った血生臭い由緒ある道だ。ゲーテはフランクフルトとワイマールを9回往復、ワイマールとライプティッヒも何回となく行き来した。詩人シラー、宗教改革のルター、また音楽家のバッハ、リストなども往来した。中世の文化の薫り高い街道でもある。

ゲーテは1749829日、父は神聖ローマ皇帝閣下正顧問官、母はフランクフルト市長・帝国裁判所長・神聖ローマ皇帝閣下正顧問官の娘というやんごとなき両親のもと長男として生まれる。名付け親は当然母親の実父、父の母は大邸宅の持ち主で生家も大邸宅。最高の知識階級、また富裕な家、周りの環境は森・泉に囲まれてゲーテの才能は開花した。父の書斎は法律書で一杯、母の部屋は絵画・趣味のよい調度品が飾られている、父はフルート、妹はピアノ、ゲーテはチェロをたしなむ、なるほどと思う。

     フルダ

フランクフルトの北東約100`、フルダ川のほとりにある人口6万人の宗教都市。昔は修道院を中心として栄えたが司教が領主を兼ねた司教領主国でもある。8世紀に聖ボニファティウスがベネディクト派の修道院を建てて以来18世紀までのバロック様式のカトリックの都を思わせる建物、宮殿・領主館・ミヒャエル教会などがある。

 大聖堂

2本の尖塔をもつイタリアバロック風の建物、巡教中殺された聖ボニファティウスの墓がある。綺麗で絵葉書を何人かの人が買い求めていた。




 市宮殿

さすが司教が領主を兼ねている国の市庁舎は立派、なかには歴代の領主・司教のいろいろのコレクションがある「歴史の間」がある。司教でこれだけのものをどこから集めたのか、カトリックの司教が金持ちだけではあるまい。



ゲーテ常宿のホテル、ノーベル賞受賞者のブラウンの生家もある。プロテスタントのゲーテはけばけばしいバロック調の建物の多い都市は気にいらなったが、そのうちカトリックの匂いのただよう由緒ある修道院・教会に興味を持ちしばしばこの町に投宿したという。

   アイゼナッハ

バンベルグからアウトバーンを通らず地道をひたすらバスは走る。チュウリンゲンの森を南から北に紅葉ならぬ黄葉がつづく。いけどもいけども森ははてしなく続く、上ったり下ったり250`、黄葉はちょうど見頃、きれいで十分にたんのうした。このチュウリンゲンの森の中で火力発電用の褐炭堀りが行われている、それはよいとしても、その穴の中に東独時代ソ連が原子力の廃棄物をかなり捨てたらしい。下流のドレスデンでは汚染問題が深刻に議論されているという。今でなく1030年後が心配される。

途中マインゲン市を通った。ここではビタミンC豊富なナナカマドの実を昔はジャムにして食べていたが、今は鳥のえさになるから採って食べない。環境保護と動物保護に留意し人間との共生を図っているという。そこまでできれば立派なものだ。

チュウウリンゲンの森の北西部に人口4.5万のアイゼナッハがある。バスが長い下りにかかると麓の山の上にヴァルトブルグ城がみえる。若きルターが聖書を翻訳した城、ワーグナーが書いたタンホイザーでもしられたところ。

アイゼナッハは自動車の町でもあった。東独時代ダンボールのボデーのシュコダを製造していたがさすがいまはない。オペルの新工場があり自動車の博物館もある。ガイドの女性は大学の数学科を出て自動車工場に勤めていたが東西統一で首になりガイドの仕事を今はしているという。市の失業率は15%、東独時代は良かったともいえるが、他方問題もあった。インフラの整備だけでなく観光用の建物の修復・保存でも西独に比べれば格差があるという。憎むべきは政治の貧困、戦後暫く日本でも知識人・マスコミ・政治家でソ連・中国・北朝鮮を礼賛した人が大勢いる、今はどんな心境か聞いてみたいものだ。

 ヴァルトブルグ城

                                                                          

中世風の11世紀、後期ロマネスク洋式の城。騎士の間、食事の間エリザベーとの間、さらに歌合戦の大広間、よくもまあこんな豪華なものを造った物と驚く。それにひきかえルターが1521年、城主に匿われたとはいえ部屋があまりにも質素なのに目をみはる。牢獄のちょっとましのようなもの。ルターがギリシャ語原典「新約聖書」をもとに翻訳に成功したのは、農民の言葉に近いザクセン・ベーメン語で訳したことと、木版画や装飾文字を入れ分りやすくしたことがある。初版3000部、3週間で売り切れ、2年間で15版のベストセラー。旧約聖書の翻訳もすすめドイツ語標準化の道を開いた。

アイゼナッハで起きた歴史的事件の記念の旗も掲げられている。1817年ライプティッヒの戦勝記念と宗教改革300周年を記念して、イエナの革新的学生団体が全ドイツの革新的学生をヴァルトブルグに集め、エールをあげた。イエナはワイマールの東20`人口10万の街、シラー、ゲーテ、フィフィテ、ヘーゲルなどが教授をつとめたイエナ大学がある。レンズのカール・ツアイス社発祥の地。

ゲーテはこの城にのぼり、シュタイン夫人に城の感想をつづった素晴らしい愛の手紙を書いている。またアイゼナッハの城館にも公務で何回も泊まっている。ヴァルトブルグ博物館はゲーテの歴史的遺産のためにつくられたともいえる、そのおかげで千年の昔にタイムスリップできるのはありがたいことだ。

  バッハの家

バッハがすごした家で当時の生活が分かるように楽器ほかいろいろなものが陳列されている。楽器の演奏のショウもある、お客にふいごを吹かせオルガンを弾く、サービス精神旺盛だ。バッハはアイゼナッハで楽士の子として生まれ、ラテン学校に7才から11才までいた。両親の死でオルガニスとの兄が住むオールドルフに引越したが、やがてワイマール、ライプティッヒに移り住む。



 ルターの家

14981501年、学生時代のルターが住んだ家があり、ルターの住んだ部屋、ルターの一生がわかる。




 聖ゲオルギウス教会


  マルクト広場に高さ62mの塔の教会がある。ルターが説教し、バッハが洗礼を受けた  という。当初はカトリックの教会として建てられたのがプロテスタントの教会に変った、 どうりで内部は豪華だ。


アイゼナッハからエアフルトにいく途中にゴータの町がある、人口5万人。その昔は2000平方キロの小公国だったが、この公爵は先見の明があり30年戦争の終るまえ城館の建設を開始、通商経済の立て直しを指示した。またルターの教えに忠実で当時としては珍しい一般義務教育を導入して評判を呼び教育改革の先駆けともなった。

ルターの引き起こした宗教改革はドイツ国内で広がれば広がるだけいろいろな軋轢があった。農民戦争もその一つである。1525年南ドイツで農民が「キリスト兄弟組合」を結成し「12ヶ条綱領」を決議した。この綱領は農奴制廃止、教会組織の改革、租税の軽減、森林利用の自由化などを求めたもので当時としては極めて近代的な要求であった。これは政治的・経済的に抑圧されていた農民の不満がルターの「キリスト信者の自由」で目覚め、行動をおこしたもの。しかしトーマス・ミュンツアーが「全ての人が平等な神の国を建てよう」と農民によびかけ武装蜂起するにいたり、ルターは「殺人強盗団」と非難し、諸侯もそれぞれの国で暴動を鎮圧した。ミュンツアーは斬首され農民戦争は終了したが、諸侯にも責任がある。信教の自由は個人に保障されていたのでなく、領主がその国の宗教をきめていた。領邦国家で権力が分散していたこと、教皇側にたつ皇帝に反旗をひるがえすに都合がよいことなどからルターの宗教改革を悪用したこともある。それが農民戦争だけに終わらず、国内の治世の甘さからフランスなどにつけこまれ1618年からの国際的な30年戦争になった。ドイツが主戦場であったから国土は疲弊、人口は半分、邦により2割に減ったところもあり、さらに300の領邦国家に細分化され国家としての統一は遅れることになった。

日本でも親鸞・蓮如の浄土真宗は一向一揆を農民が引き起こす野蛮な宗教として信長、家康ほか諸侯が弾圧・禁制などした歴史がある。蓮如は「御文」で諸侯・代官に抵抗するな、年貢は納めよ、他宗教の悪口をいうなと信者に説くが、目覚めたものはどうしても行き過ぎることがある。それは歴史が教える改革のひとつのステップであり、血の出る代償でもある。

         エアフルト

アイゼナッハから東へゴータをすぎて60`のところに人口21万の州都エアフルトがある。カール大帝により8世紀に建設され交易の拠点として発展した。染色・織物で栄えた商業都市でもある。昔は大学町でライプティッヒ大学より16年前に創立されたが、プロシャ王の命により1816年閉鎖された悲しい歴史も持つ。

 大聖堂

丘の上に8世紀建てられてから改築をかさね現在の姿になった。大寺院と教会で構成されているドイツ唯一の2重構造建築物。入口を飾っているのは使徒の彫刻、なかには高さ14mのステンドグラスもある。70階段もある下の広場でバザーが開かれている。ソーセージ、アイスなどを食べながら店を冷やかしているお客もけっこういる。この大聖堂の入口にある城塞はなかなか趣がある、ユネスコ文化遺産に推薦中という。

 クレーマー橋

東西交易の中心地でゲラ川に築かれた橋、12世紀には120mの長さ、巾員19mの石の橋でつくられた。この橋の上に60軒ほどの店がならんでいたという、今は30軒ほどの店が両側に並んでいる。橋と言わなければぜんぜん分らない、しかしこの橋はキエフ・エアフルト・フランクフルトを結ぶ東西通商路という小さな銘板がある。フィレンツェにも橋の上に店があったが賑わいは比較にならない。ただここでは家の窓の上に動物・人間などの彫刻がならんでいるのは面白い。

 市庁舎

    

マルクト広場には立派な19世紀の市庁舎がたっている。中はがらんとして広いが、3階の大広間にはエアフルトの歴史が描かれている。タンホイザー、ファウストをテーマに描いたものもある。市庁舎の広間は普段は入れない、コネで入場できたと初老の現地ガイドは自慢する。本当かな?

市庁舎のまわりに16世紀に建てられた面白い建物がある。「広い竈館」は装飾的なレリーフ、5感(視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚)が寓意的に表現されている。「赤い雄牛館」は人の形で1週間を表現、9人のギリシャ神話の女神が鎮座している。ローラントの立像は16世紀のもの、町の庇護者聖マルティンだそうだ。

18089月にここエアフルトでナポレオンとアレクサンダー皇帝の出会いがあり、10月にはナポレオンはゲーテを選定侯の官邸に招き謁見した、「若きウェルテルの悩み」を7回も読んだ「貴方は偉大な人です・・」と挨拶したそうだ。

この地区はフランス皇帝の住居、プロシャ行政区長官の官邸、戦後はアメリカ司令部、ソ連司令部と治世の歴史を垣間見たところでもある。

     ワイマール

エアフルトの東25` イルム河畔にあるこの町は現在人口6万だが芸術の薫り漂うドイツ・クラッシック文化の華が咲いたところ、ゲーテ・シラーなどが情報発信した町としてあまりにも有名。マルクト広場の市庁舎(右図)近辺300mに見所が集中している。また世界で初めての自由で民主的な憲法が制定され、ワイマール憲法と名付けられたのはその昔教科書で習った。

ゲーテはワイマール公国のアウグスト候に招かれて177526歳のときこの町にやってきてから82歳で亡くなるまでこの町が気に入り、居つづけた。ゲーテがきたときは戸数700戸、住民7000人の小さな町だったが、そこで大臣として真面目に公務をやり「ファウスト」「ウィルヘルムマイスター」などかずかずの名作をものにした。ゲーテの招きでシラーなどもこの町にやってきた。リスト、クラーナハとも交流があり、精神文化は高揚し作品に反映されたともいえよう。ゲーテは多忙にもかかわらず暇を作りイタリアに2回も行き「イタリア紀行」を書いた。また出かけることが好きで「木曜日はベルヴェーレ(ワイマールの南3キロ)、金曜日はイエナ(ワイマールの東20`)へ旅たつ・・」のように、好奇心旺盛、岩石の収集までこなす、おまけに亡くなるまで女性への愛はつづく、やはり天才だ。

音楽の分野でもバッハはここで9年間宮廷楽士・オルガにストを務め、リストは18年この町にいてリスト音楽院がいまもある。シュトラウスも一時期いた。美術の分野ではなんといってもクラーナハのこの地の活躍は素晴らしい。

 ゲーテの家

2階建ての家で裏に庭がある。書斎、書庫、愛人・夫人クリスティアーネの部屋、客室、寝室など在りし日のゲーテが偲ばれる。入口に有名な「SALVE」(ようこそ、こんにちは)の文字がある。「なぜ立ちどまっているの、門はない、戸もない、安心してお入りください、喜んでおで迎えします」というゲーテの詩が浮かんでくる。世界の誰に対しても歓迎するという、よくできているのには感心。ゲーテは処世術もよく心得ていた。ワイマール公国の枢密顧問官に出世してから詠んだ詩「いかなるときも口論は禁物、バカと争うとバカをみる」 本当にそうだと思う。

 シラーの家

ゲーテの招きでワイマールにやってきて3年間住んだ家。3階建てだがゲーテの家より小さい。息子の頭にのせたりんごを射落とす「ウイリアム・テル」などをここで書いた。ゲーテとシラーは出自でみれば金持ちと貧乏人、性格では綜合的・直感的とかたや理念的・分析的と対称的に違う。しかし10歳年下のシラーがゲーテを敬慕、ゲーテもシラーの才能を認め相互補完的な関係で切磋琢磨したと思われる。シラーの書斎はりんごの腐ったのがいつも置いてあった。シラーはその匂いが好きで、その匂いがないと書けない。ゲーテがやってきてその匂いにギョエテと言って辟易したと言う、ちょっとできすぎな話だが。

 国民劇場

シラーの「ウィリアム・テル」やゲーテの「ファウスト」、ワーグナーの「ローエングリーン」が初演された由緒ある劇場だが、なんども、焼けている、いまの劇場は20世紀初頭の建築物。第1次世界大戦後再建を期して憲法史上もっとも民主的な「ワイマール憲法」はこの劇場で採択され、ドイツが「ワイマール共和国」としてよみがえった。この劇場前にゲーテとシラーの像がある。観光客がカメラ・ヴィデオの放列、あまり皆しっかり見てはいない。ゲーテが片手で菩提樹のリングを握り、片手でシラーの肩に手をやる良くできた像ではないか、観光客をどんな気持ちで迎えてくれているのだろうか。

 バウハウス博物館

有名な建築家グロピウスにより1919年ワイマールに創立された総合デザイン学校の歴史がよくわかるように6年間の諸作品が展示されている。インダストリアル・デザイン発祥の地として知る人ぞ知る、ベルリンに大きなバウハウス博物館がある。 

 ワイマールの北西5`の山腹に強制収容所ブーヘンヴァルトがある。かってここに50ヶ国から25万人の人が拘留され、5万人が命を落とした。戦後でもソ連占領下、2.8万人の囚人が収容されそのうち7千人が尊い命をおとした。ドイツ史上の暗黒な時代を後世に残すため記念館と慰霊碑がある。

ワイマールの歴史と文化遺産をたたえ「イルム河畔のアテネ」として1999年「ヨーロッパ文化都市」に指定された。おりしもゲーテ生誕250年、墓場のかげてゲーテは喜んでいるだろう。

   ライプツィヒ

ワイマールの東北110`のところに人口45万のライプツィヒがある。大きな中央駅の前に昔の城壁を壊したあとの環状道路がある。その中に見所が集中している。ライプツィヒの名前は菩提樹を神聖なものとしてあがめるスラブ系の人が入植してつけられたもの。12世紀には「市場」開設権が認められ年2回の大市が開かれていた。12世ニコライ教会、13世紀トーマス教会、15世紀にライプツィヒ大学がこの肥沃な大盆地にできた。16世紀には農業にくわえて商業・手工業が発展し、さらに銀鉱山が発見されるにおよんで富が一部の上層階級に蓄積された。それをもとに旧市庁舎をはじめとする壮麗なルネサンス様式、バロック様式の建物郡が建築された。戦後の東独時代はあまり復興が進まなかったが、統一後約12年ライプツィヒは建築ブーム、いたるところに高いクレーンがそびえている。

何百年にもわたりこの街を特徴づけたものに見本市がある。東西遠方交易の拠点として立地条件もよかったが、15世紀皇帝により帝国見本市としてお墨付きがつき、以降大見本市会場として発展した。特に毛皮では世界に名をはせたという。

書籍もグーテンベルグが印刷機を発明してから15世紀にはこの町で1300冊以上出版されていた。1867年レクラムは連邦議会が著作権を30年に限定したことを知り古典を誰でも出版可能になったことに目をつけた。レクラム文庫を創刊、ゲーテの「ファウスト」初版文庫35巻、5000部を売り切り、それ以降「ファウスト」は世界ベストセラーになった。ちなみに日本の岩波文庫はレクラム文庫をまねたものである。書籍のカタログや世界ではじめての新聞もここで発行された。いまは書籍・新聞だけでなく中央ドイツ放送(MDR)の本社がありメディア都市にもなっている。

ライプツィヒ大学は15世紀初頭の創立、ヨーロッパではボローニア、パリ、オックスフォード、プラハ、ウィーン、ハイデルベルグ、ケルン、エアフルトの次で9番目である。創立160年後ゲーテはこの大学で法学の勉強をした。父親が法学博士でその影響を受けたと思われる。この大学からシューマン、ニーチェ、ワーグナー、ライプニッツなどの名士が輩出し、日本からは森鴎外、朝永振一郎が学んだ。いまは書籍をイメージした35階建ての高層ビルの大学(右図)になり入口にライプニッツの記念碑がある。

ライプツィヒの近くには見所が多い。西北40`のところにハレ市がある。バロックの巨匠ヘンデルを生んだ町として有名。その西25`のところにルターの生地アイスレーベンがある。北方100`のところに人口10万のデッサウがある。ワイマールに1919年設立したバウハウスが政治的理由で1924年デッサウに移り、造形芸術・建築・デザインの最盛期を迎えた。ここは航空機産業のメッカで世界初の本格的航空機が開発された。デッサウの東20`のところに人口6万人のヴィッテンベルグがある。ここはルターが38年住んだところ、ヴィッテンベルグ大学でルターは哲学・神学の講義もしている。また市長兼画家のクラーナハが42年住んだところであり、ルターが有名な「95か条の論題」を教会に張り出した宗教改革のスタートの地でもある。


1519年ルターは城塞(現在は新市庁舎)でルターに破門状をつきつけるために奔走した神学者エックと有名な「ライプツィヒ討論」をしている。論争は物別れ。152012月公衆の面前で教皇教書・教会法令を燃やし教皇との絶縁を宣言した。ルターは「聖書または明快な理由がないかぎり撤回できない」「我はここに立つ、神よ、我を助けたまえ」壮絶な決断をしている。カール5世はドイツ国民がルターを支持し、宗教的対立が政治の世界に波及するのを恐れ、ルターを214月帝国議会に免換、異端分子として破門・追放した。この会議はヴォルムス(フランクフルトの南南西50`)で開かれたため、ヴォルムスは宗教改革の記念の地としてルター中心にヤン・フス、サヴォナローラなどの記念像がある。また11世紀のユダヤ人墓地、シナゴークほか各派の教会が1113世紀に建てられている宗教都市でもあった。

傷心のルターはヴォルムスから故郷ウィッテンベルグへは帰る途中、アイゼナッハでフリードリッヒ候さしまわしの騎士団に拉致されヴァルトブルグ城に下級武士として変名し篭城生活をおくることになる。

 ライプツィヒ会戦記念碑

プロイセン軍は軍制改革に着手した。従来の傭兵制にかわり、徴兵制の国民軍と農民・市民・学生の義勇軍のシステムを採用した。フリードリッヒ王の「我が人民に告ぐ」のもと同盟軍33万、対するフランス軍20万、181310月ここライプツィヒで3日間の戦闘がくりひろげられた。ロシア・プロイセン同盟軍は勝利し、ナポレオン体制は以後崩壊の道をたどる。諸国民解放戦争ともよばれ100年後の1913年記念碑が建てられた。高さ91mどっしりした重みのある記念碑、500段上れば市内がよく見える展望台がある。この広場は大きい3万坪もあるという。近くに博物館、ロシア教会もある。市の中心地からはずれていることもあり最近観光客は少ないという、戦争が風化してきているのかどうか知らないが、若い人にはぜひとも兵どもの夢の跡をみてもらいたいものだ。

 旧市庁舎

16世紀に建てられたドイツルネサンスの特徴的建物。建築家兼市長が中央の塔の左に2つ、右に4つと非対称的なファザードをもつ市庁舎を設計した。市庁舎の東側に30年戦争後の町の復興を夢みて旧証券取引所が建てられている。この狭い広場にライプツィヒ大学で法学を学んだ若かりし頃のゲーテとその恋人たちを記念して碑が立てられている。なかなかハンサムで格好よい、さぞかしもてたことであろう。恋人に「詩」やラブレターをよく書いたといわれる。







 新市庁舎

旧城塞の跡地に立てられた壮麗な市庁舎。20世紀初頭、灰白色の貝殻石灰岩が表を飾る旧城塞のイメージを残した建物を造った。この美しい建物をなぜか日本の観光客は素通り、外人はよく眺めている。




 ゲヴァントハウス、オペラハウス

広いアウグスト広場(統一前はマルクス広場)にオペラハウスと新ゲヴァントハウスが向きあって建っている。両建物とも19601981年建築で新しい。オペラハウスは17世紀はじめ、ドイツで2番目に建てられたが戦後東独で最初に復旧した文化的建物、客席は1400、直線的な四角の大きな建物が印象的。ゲヴァントハウス(右図)は客席1900、音響効果抜群で反響が約2秒、ユニークな設計の建物で一度見たら忘れられない。もともとは18世紀設立の民間オーケストラでは最古のゲヴァントハウス管弦楽団の根拠地、有名な音楽家・指揮者がここで研を競ったという。

 トーマス教会

13世紀に建てられ19世紀に大改築された。塔の高さ68m、教会の全長76mの大教会。統一後修理が本格的におこなわれるようになった。さらに2000年バッハ没後250年祭典のために公共資金のほか一般寄付5億円を集め大修理が行われた。19世紀末ステンドグラスが改築されてルター、バッハの像が描いてある。キリストとか天使あるいは王様などがステンドグラスには多いが、宗教人、音楽家が描かれるのは珍しい。バッハは172350年 この教会でオルガン奏者兼指揮者、また付属音楽院責任者として務めながら「マタイ受難曲」など数々の名曲を生んだ。この教会にはバッハの墓もあり外には大きなバッハの記念像がある。この教会はその昔ナポレオン軍の弾薬庫、ライプツィヒの戦いのときは野戦病院になった。

    

バッハはライプツィヒの音楽総監督的地位にあったが、家庭は再婚後子供も増えて経済的には苦しかった。渉外は苦手で、教会・市・大学関係者とはうまくいかずいつも苛立っていたともいわれる。アイゼナハで生まれ、ワイマール・ケーテン・ライプツィヒと移り住み苦労の連続であった。そのせいか後世ドイツバロック音学の第一人者と言われるような宗教曲から世俗曲までの巾の広さ、情感の深さで多様なファンを生み今日まで魅了し続けているのであろう。

 ニコライ教会

この町最古、12世紀に立てられて以降何回も改築が重ねられて現在の姿になる。中に入ると天井が高い、棕櫚の木として形作られた円柱が天井にとどくのは極めて珍しく印象的。天井、2階席なども装飾が多様で目をみはる。19世紀のパイプオルガンは4段の名品という。ここは1989年ベルリンの壁崩壊、ドイツ統一につながる「平和と代願の祈り」での集会があったところ。これを契機に全東独で民主化要求の集いが広がった。教会の外の石畳に「祈りのデモの足跡」が埋めこまれている

ライプツィヒで宗教改革が起きて450年、ライプツィヒの会戦から176年、また歴史に登場するのは何か因縁めいたものを感ずる。19895月以降教会への道は当局により管理され、平和の祈りの関係者は逮捕され、何とか民衆の動きを抑えようと政府・警察は必死であった。107日東独建国40年記念日、無防備の数百人が馬小屋に拉致・監禁された。10月9日月曜日毎の祈りの日、2000人の座席は14時頃から人で一杯、なかには秘密警察・党員が約半分はいる。祈りと平和の誓いが終り、2000人が教会をでたとき、そこには数千人が待っていた。彼等は片手にろうそく、片手で火が消えないように手をかざす、石も棍棒も武器も持っていない証拠を示す。デモ隊は非暴力で静かに行進する。市中の何万の人たちもガラスひとつ割れることなく終わったことで自信を持ち始めた。東独のデモ粉砕責任者ジンダーマンは死の直前に言った「我々は準備万端整えて臨んだが、しかしろうそくと祈りは・・・」 同じドイツ人同士ということがあるにしても無抵抗のデモ参加者を弾圧する決断はできなかったのであろう。

 メドラーパサーシェ

ゲーテの像が見つめる方向にアーケード風のきれいなお洒落なショッピングセンターがある。その入口地下に「アウアーバッハ・ケラー」がある。ゲーテの「ファウスト」で酒盛りする博士と学生のシーンが何枚か壁に描かれている。通路にファウストとメフィストフェレスの像がある、おかげでそこだけフォトストップの観光客が一杯で地元の人は迷惑そう。ゲーテも学生時代この酒場に通ったというが当時から有名なワイン酒場兼レストラン。ゲーテはワイン好きで誌を詠む「若者は酒なしに酔い、年寄は酒によって若返る。憂いは命の敵、葡萄が仇を討つ」 さすがはゲーテ、巧いことを言う、シニアー世代は妙に納得する。

 クロッホ・ホッホハウス

20世紀初頭に建てられ「鐘つき男の高層建築物」と市民からよばれる。昨年イタリアに行ったとき見たベネツィアのマルコ広場の時計塔によくにている。違うのは建物上部の言葉だ、Omnia Vinct Labor”(労働が全てを克服する) 天使とか女神、さらに愛などの言葉ではない、労働が大切と高らかに搭の上に掲げた。さすが職業意識の発達したドイツだけのことはあると感心した。もっとも一昨年ポーランドのアウシュビッツに行ったとき、ゲート入口上にARBEIT MACHT FREI(労働すれば自由になる)が掲げてあった。同じ「労働」でもそれを信じて虐殺された人の話に気が滅入る。

ライプツィヒ南5`にリュッツェンがある。17世紀スウェーデン軍と神聖ローマ帝国が激突、国王グスタフは37歳で戦死した、以降ドイツからは撤退した。グスタフは国内では貿易・商工業の伸展、鉱山の開発に成果をあげ、海外ではデンマーク、ロシア、ポーランドとの紛争を有利に解決しバルト海を制覇した。勢いに乗り30年戦争で内乱の極致にあった北ドイツに侵攻、連戦連勝でライプツィヒまで攻め入る。リュッツェンでグスタフ王は負傷、甲冑を脱ぎ捨て陣頭指揮したがワレンシュタイン軍の傭兵隊の矢に倒れた。スウェーデン軍は王が倒れても敗走せず死力をつくしてライプツィヒの闘いには勝利した。

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